12月10日午前1時39分、父は死んだ。昨日84歳の誕生日を迎えたばかりであった。昨日は弟とともに急きょ病院に呼ばれ、主治医から、「急に呼吸が浅くなった。肺に水が溜まっている。利尿剤で水分を除去し、様子を見ましょう。体力も落ちているし、回復を祈りましょう。」と言われた。日曜日は元気だったのになぁと心配しながら病院を後にした。10日午前1時に自宅電話が鳴り響いた。病院からだった。「お父さんが危ない状況です。すぐ病院まで来て下さい。」。急いで着替え、家内とタクシーで病院に駆け付けたが、父はもう息を引き取っていた。弟の嫁が泣き叫ぶ。弟夫婦は父と同居していたのだ。母の死の時のことが蘇る。7年以上経っている。その時と同じように、これからどうすべきかを家族で討議した。まず、積善社(葬儀屋)に電話し、霊柩車の段取りをする。キリスト教での葬儀と決めていたので、長丘教会の長井牧師に電話する。遺体は霊安室に運ばれた。2時頃、長井牧師が到着。遺体搬出前にお祈りする。主治医、看護師から挨拶を受ける。積善社が到着し、霊柩車で遺体を自宅(実家)まで運ぶ。自宅では、遺体に背広を着させ、体が硬直する前に体勢を整える。腐敗防止のためドライアイスを配置する。落ち着いたところで、家族、牧師、積善社と葬儀のスケジュール、段取りを話し合う。細かいところでは、霊柩車の種類、棺桶のグレード等まで葬儀屋の主導のもと話を詰めていく。こういうことは、悲しい中ではあるが、事務的に話を進めていけるものだ。傍らには父の遺体がある。涙は出で来ない。話を終え自宅に戻ったのは午前5時半になっていた。仮眠し、8時に起床。会社、親戚関係に父のい死去を伝える。午前中は葬儀の準備をする。式次第に記載する父の略歴を教会にFAXする。
午後2時実家に行き、遺体を霊柩車に乗せ。古小烏の積善社福岡斎場に搬送。午後3時、長井牧師のお祈りで納棺式を行う。前夜式が始まるまで、買出しや遺族挨拶の準備等あわただしく過ごす。午後7時前夜式。いわゆる通夜である。長丘教会員より受付、奏楽の奉仕をしていただく。牧師も遺体の対面から火葬場までご奉仕いただく。これは仏式ではないことである。葬儀にとことん付き合ってくれる。
前夜式では、父のことが思いされ、初めて涙が出る。入院してから3か月、84歳の誕生日を迎えて人生を全うして天国に昇って行った。家族では、人工呼吸器装着はしないことで合意しており、延命治療は行わなかった。これで良かったと思った。自然と息を引き取って行ったのだ。父方の親戚は前夜式後の食事にも遅くまで残ってくれた。母方の今泉家は誰も残らなかった。大阪の叔母は欠席。付き合いの浅さと冷たさを感じた。その夜は、弟一家とともに積善社に泊まった。
翌11日。11時より葬儀。父は、キリスト者ではないが、生前クリスチャンの母の眠る墓地に一緒に入りたいと意思表示していたため、私の判断でキリスト教で葬儀を行うことにしたのだが、教会の牧師も受け入れてくれた。説教は、「個人の心の奥は誰も分からないが、その人が、キリストを信じていたと信じることはできる。」とあった。私も信じたいと思う。そうであれば、天国で母と再会していることと思う。これが遺族にとっては慰めである。最愛の母と再会できるのであるから。遺族代表の言葉は、原稿を用意していたが、父への思いが溢れてきて一気に原稿なしでしゃべってしまった。これも天からの導きかと思う。最後、棺に花を入れ、最後の分かれをする。12時半、出棺。福岡市火葬場へ向かう。
13時半、火葬前の最後の別れ。肉体との最後の別れ。悲しみが込みあげる。家族は皆泣いている。
15時、焼きあがった遺骨と面会。集骨する。16時、積善社に戻り、親戚と食事会を催す。残ってくれたにはここでも父方の親戚が大勢である。個人の思い出話をする。母の思い出話も出てくる。家内を褒めてくれる。生前、本当に良く世話をしてくれたと思う。弟の嫁もよくしてくれた。父は息子の嫁に恵まれたと思う。幸せだったと思う。
あっという間に2日間が過ぎた。今は、脱力感でボーッとしている。悲しみはこれから徐々に増幅していくのだろう。